越前一向一揆との抗争 天正2年(1574年)に思うこと
越前五山の事を調べ初めまして、やりきれない歴史上の出来事があります。
まあ歴史好きのボヤキです(笑)
織田信長の越前侵攻と朝倉氏の滅亡の翌年、天正2年に起きた越前一向一揆との抗争。早い話、抗争に敗れて一旦越前の白山修験は壊滅しました。
越前白山修験の中心地、平泉寺は全山消失。その他文殊山、吉野ケ岳と焼亡。日野山、越智山と無傷でいられるわけはなく。
特に平泉寺の壊滅は決定的で、以後江戸時代に再復興しますが寺院規模は10分の1
に縮小します。
何より多数の古文書、仏像、仏具等々一旦失われたものは2度と戻らず、どれだけ国宝級の文物が灰燼に帰したことか。中には大徳のはっきりと実在を記した書物もあったかもしれませんね。
有数の宗教都市平泉寺がそのままの形で残っていたら、福井県は恐竜に頼らなくてもよかったかも(笑)です。
で、ふと気づいたのですが我が本山の園城寺は歴史上10数回の焼き討ちに会い、豊臣秀吉の時には廃寺同然に追い詰められましたが、すべて見事に復活し別名「不死鳥の寺」と呼ばれ、現在も現役活動中です。
この2寺院の差はどこから来たのかなあと、考えたいですね。