霊仙寺山から飯綱神社奥の院へ ④
先程の分岐の案内板、飯綱山方面へ。9時28分。
ここから先、きつい登り下りはほぼなくて、山の稜線の移動になります。笹薮をしっかり刈って登山道を維持していただいていますね。
木の根を越えたり岩を登ったり。
ついにピークが見えてきました。9時48分。
山頂手前の最後の急登。息をしっかりと整えて、ご馳走のペプシを飲みました(笑)
上り坂を登り
山頂手前の登山道の交差点です。
10時8分、飯綱山山頂着。あいにくの曇りで見晴らしはありませんでした。
山頂は巨石がゴロゴロしたかなり広い広場で、登山の方は30人くらいいたかな。親子連れ登山の方もかなりいました。9割9分飯綱山の南や西の登山道から登ってきたようです。登りやすい登山道のようですね。
山頂をそのままスルーして目的地に向かいます。前方のピークが本日の目的地です。
雲の切れ間から北アルプスかな?が見えました。
登山道から脇に少し下った先に奥の院がありました。10時18分無事到着です。
中で勤行させていただきました。手を合わせながら、神仏側も人が手を合わせることを望んでいらっしゃるのかな、と、そんなこと感じました。
奥の院へ下る道の脇にあった祠。お稲荷様でしょうか。風化した碑伝がおいてあります。この後、下山に2時間かかりました、師僧のように40分で下山はとても無理でした(笑)。
霊仙寺山山頂へ 霊仙寺山③
きつい登山の始まりです(笑) 午前7時18分
しばらくは緩やかな登りが続きます。
道案内もしっかりしています。
こんなに早く登れるかな。
7時42分、しばらく緩い登りですが48分ごろから急登が始まりました。さあ本番です。
きつい登りを振り返りました。
7時56分。まだまだ急な登りが続きます。さすがに小休止。
8時10分、ここまでの登りがきついです。
ここから振り返ると少し眺望が開けました。8時14分
8時20分、さすがに前の看板から30分は無理じゃないかな(笑)、誰かが山頂まで1時間を「ただし無理100分」と落書きしてありました。
道にはみ出したリンドウ、誰も踏みつぶしていないでした、登山者のモラル良いですね。
休み休み、きついきつい急登がずーつと続きます。心が折れそう。
8時34分。
登山道唯一のトラ線、8時46分。
ほとんどずっと林の中でしたが、やっと開けだしました。8時49分。
奥山祇命石碑、勤行しました。8時57分。
やっと、やっとです(笑)急登が緩くなりだします。
9時10分、あれが山頂!と思うピークが。(実は違います。)
ますます近づきます(実は飯綱山方面です)。
途中から雲が下から湧き上がってきました。山登りでしか見れない光景ですね。
眺望の開ける広場。
登山の方かな?石が積んであります。9時12分。ここまでくれば山頂はもうすぐです。
霊仙寺山山頂に行く分岐、9時16分。
9時21分霊仙寺山山頂着。先ほどの看板通りの時間かな(笑)頂上は広めの広場です。
石碑の前で勤行させていただきました。さあ本日の目的、奥の院へ。
霊仙寺山から飯縄山へ その壱 霊仙寺跡①
ここで少し白山信仰から離れて、9月2日に飯綱山に参拝登山してきましたのでその御報告を数回に分けてさせていただきます。
飯綱山(いいづなやま)とは長野県北部、長野市、飯綱町等にまたがる標高1,917メートルの山で、古くから飯綱権現を祀っている山岳信仰、修験の山でした。
で、何故ご縁があるかですが、師僧が飯綱権現(私は「いづなごんげん」とよんでおります)を祀り、また霊仙寺山のふもとに師僧のお寺の奥の院もあり、私も参拝する機会があります。
常々山上の飯綱神社に参拝したいと思っていたのですが、今回機会を得て参拝してまいりました。
苔むした道が美しいですね。
まず霊仙寺山の登山口には廃寺の遺跡があります。
四角い穴の開いてる石が礎石です。
前宮には大日霊貴命、大己貴命、事代主命、稲倉魂命、猿田彦命が祀られていました。修験式の勤行を行いました。
講堂跡、先達の方たちの学問所です。
軽い登り道が続きます。
史跡が次々現れます。往時はどんなお寺だったのでしょうか。
杉木立の道が続きます。
手を清めようと思いましたが、泥が舞い上がってしまい断念しました。
この石段を登ると史跡のメインの場所です。
文殊山 越前五山の中心 その参 室堂(小文殊)~本堂(大文殊)~奥の院
小文殊の先の展望台からの眺め 。
福井市の方向です。中央の線路が令和6年3月16に敦賀まで開通する北陸新幹線の
線路です。実は、文殊山には新幹線のトンネルが作られました。その他、越前五山の日野山にもトンネルが作られています。
地元は新幹線開通の期待が特大。恐竜博物館をリニューアルしたり、一乗谷朝倉氏遺跡の博物館を新しくしたり、すごく観光に力を入れています。
展望台の脇に文殊菩薩の石仏が祀られていました。
大文殊までずっと整備された道が続きます。
ほどなく大文殊の本堂に着きました。
本堂に登る階段の手前に石仏群が祀られています。
山頂の本堂。中には白木つくりの立派な文殊菩薩が祀ってありました。お守りやお札、絵馬もあり人気のお寺のようです。
ここから道は山道らしくなります。
日本全国に胎内くぐりは何か所あるのでしょうか?疑死再生は修験では大切なキーワードです。
厳かな気持ちになるのも確かです。現代人が思う以上に重要な観念かもしれません。
10分ほどで奥の院び着きました。阿弥陀如来のご真言を加えて勤行させていただきました。
文殊山 越前五山の中心 その弐 楞厳寺から室堂(小文殊)
文殊山の説明を少し、引き続き楞厳寺でいただいたプリントを参考にさせていただきます。
文殊山(標高365m)、奈良時代の初め泰澄大師が 大唐・五台の峯を文殊山に移し、大師自ら文殊菩薩を刻んで祀り、さらに聖観音菩薩(室堂、小文殊)、阿弥陀如来(奥の院)も刻み安置したと伝わります。
楞厳寺の手前に登山客用の駐車場があります。
楞厳寺の右手から登山道が始まります。貸し出し用の杖も用意してありました。
道の状態が悪いと看板にあったので、本道からショートカットの脇道に入りました。
穏やかな上り坂です。
案内板はとてもたくさんあり、道に迷うことは無いと思います。それだけ登る人の多い山なんですね。
登山道はとても広く、しっかり固められています。車が走れそうなほど(笑)森の中の遊歩道といった感じでしょうか。
三番はげの手前から本道に戻りました。
登ったのは7月のとても暑い日。数日前大雨が降り道のところどころに流された草木が残っていました。
ツチノコ坂の休憩所、少しだけ勾配がきつくなりました。
ツチノコ坂の名前の由来は、ここでツチノコと出会ったからだったんですね。ストレートなネーミングです。
でも、若い方はツチノコって知らないでしょうね。
道はまた穏やかな登りに。
他の登山道(帆谷コース、二上コース)との合流地点、案内板があるので迷いません。大村コース(楞厳寺から登るコース)以外からもたくさんの登山客の方とお会いしました。
地図で見ると七曲坂あたりでしょうか。
案内板以外にもこんな看板が、そこここにあります。
登り始めて30分弱で室堂(小文殊)に到着しました。トイレもあり室堂の前は広場になり休憩所もあります。
室堂。聖観世音菩薩が祀られています。修験式で勤行させていただきました。
室堂前の立派な天狗杉。「天狗」と付くところがいかにも修験の山ですね。
文殊山 越前五山の中心 その壱 楞厳寺
実は越前五山には中心になるお山があります。
ふつう思い浮かぶのは、
当然「白山」でしょ?なのですが、
標高からすると、一番低い山(365m)の文殊山です。
何故、越前五山の中心なのか?実は私にも分りません(笑)
楞厳寺の紹介をお寺で印刷しているチラシから抜粋させていただきます。
なお、チラシと登山地図は楞厳寺にて無料で配布されていました。
楞厳寺の簡単な歴史
奈良時代の養老元年(717年)に泰澄大師の開かれた由緒ある古刹寺院、往時は
配下17坊(僧房=僧侶の住む建物)、末寺36ケ寺120坊の大寺院で周辺一帯に
勢力を誇っていましたが、戦国時代の天正元年(1573年)の織田信長軍による
越前侵攻、そして何よりも壊滅的な打撃は翌天正2年(1574年)の一向一揆との
抗争により寺も山も灰燼に帰しました。
その後江戸時代に入り初代福井藩主結城秀康公がお寺や伽藍の再建に着手、ですが江戸時代・明治時代とたびたび火災に見舞われ貴重な歴史的資料は失われてしまいました。
現在は高野山真言宗のお寺です。
現在のご本尊は文殊菩薩。
観音堂に薬師如来・阿弥陀如来・十一面観世音菩薩が祀られています。古文書によると鎌倉から来臨されたとの事。鎌倉時代の執権北条時頼寄進とも伝わっています。どういう経過で寄進されたのか興味がわきます。
江戸時代の古文書ではもともと本堂には観音堂の三尊+二王像が祀られていたとの事。
文殊山登山口の一つです。
次は文殊山に登ってみましょう。